赤と黒 2
赤と黒について5月17日に下記のように書いた。
「誤訳が多いとけなしている人がいたが、ちゃんと読み通したのかしら? 確かに出だしはおぼつかない調子のところもあるが、第一巻の半分も読むともうわくわくどきどきの連続で、小説の世界の中にずずーっと入り込んでしまう。細かいことを言わず楽しめばよいと思うが。」
これに対し共感した、いやそうはいうけどやっぱり誤訳が多い、と賛否双方のコメントを戴いた。
赤と黒はやっぱり恋愛小説の白眉として今の若い人にもどんどん読んで欲しいと思う。僕も大学生時代、好きな女性が居るときに読んだ覚えがあるが、読後感は今はさっぱり覚えていない。だが、自分の体験、その女性、それから何人かの女性に始めて手を握った、好きだと言った、くちづけしたという場面はしっかり覚えているし、そのとき背中がぞくぞくした覚えも明快に思い出せる。
今赤と黒を読み返すと、そういうぞくぞくする想いが甦ってくるように思われる。分裂症気味のソレルになんだこんな奴と憤ったり、スーパーヒーローだなとやたら感心したり。確かにご指摘のように野崎歓の訳に誤訳はあるだろうが、肝心なのはそういうぞくぞくする場面で共感を覚えられるような訳をしているかどうかだ。むしろ新しい訳によって、大岡正平や桑原武夫・生島遼一(大学の先生達でお話を聞いたこともある)等の訳に新味を覚えず赤と黒を読むのを敬遠していたかも知れない若い読者に新たな興味を抱かせたことが重要だ。何度も言うが、スタンダールの赤と黒は恋愛小説の傑作だ。ぜひたくさんの人に読んで欲しい。その手助けをどうするかは時代の空気をどう読むかによると思う。
先日村上春樹訳でキャッチャー・イン・ザ・ライを読んだ。同じ訳者のグレート・ギャツビー程の共感は覚えなかったが、饒舌な主人公の語りの中に不安な心の動きが繊細に表現されて居ることが良く分かった。これを取り上げた別のブログで初訳者が当時のニューヨークの雰囲気を十二分には理解できておらず、ややピンと外れの訳となっていたところが指摘されていた。口語的な表現が多いから当時のニューヨークが分かっていないと難しいところは確かに有ったろう。僕はたまたま20代、40代でニューヨークに過ごしたこともあり、息子がプレップから米国東部の大学進学して居ることもあり、主人公や友人の考え方は良く分かり、村上訳がその雰囲気を良く出していると思った。
訳にはいろんな観点があろう。その時代の理解も大切だが、主人公や脇役の心の動きを生き生きと今の時代の読者に伝えることがもっとも重要だと思う。その役割は野崎訳は十二分に果たしていると思うがどうかしら。僕は誤訳が有って良いとは言ってない。プロなんだから徹底的に減らし練りに練った文章にしなけりゃ。だが、新たな読者を赤と黒の世界に呼び込んだ光文社新訳古典文庫の功績にも目を向けてもらいたいと思う。
その後、産経新聞の桑原聡氏の記事、誤訳を指摘した立命館大学の下川茂氏の指摘の日本語表記の部分(フランス語は分からないので)を読んだが、確かに指摘は当たっているところもあり、野崎訳が東大教授とは思われない日本語をあちこちで使ったことは確か。だが、僕は読んでいるときは気づかなかったし、気にならなかった。僕がとろいのか、小説が面白過ぎて、そういう指摘を忘れ去らせるのか?こういう論争はプロ同士でやってもらうとして、このブログにコメント寄せる人、アマゾンにレビューを書いた人は、下川氏など他人の指摘に頼らず、自分で野崎訳を読み切った個人的感想はどうなの?と聞きたい。誤訳を指摘する人の文章(アマゾンのコンドルさん以外)はけっして明晰(Clarité)とはいえずネットで得た知識のパクリで投稿されているように僕には思われた。間違いだったらごめんなさい。
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